情報を共有するということ
人と会話をしたことはありますか?想いを伝えたことはありますか?
「ご飯が食べたい」「外出の準備をしてほしい」こんなことを口にすること。
理解してもらうために、何かをしてもらうために、人は人に情報を共有しているのだとイメージしています。
大きく捉えると情報共有という行為は、皆が日常的に行ってるものです。
なぜ改めて情報共有の必要性を考えるのか?単純な理由ではありますが、円滑な仕事をできるようにありたいからです。
構造の理解を通して、情報共有の指針を模索していこうと思います。
情報共有と距離
まず最初に情報共有と距離、一見関連性が見えにくい2つの概念ですが、個人的に大事な観点だと考えているので言葉にしていきます。
情報共有における距離とは、次のようなものをイメージしています。
物理的な距離
- 同じオフィス (近距離) <=> (遠距離) オフィスとリモート
心理的な距離
- 1対1 (近距離) <=> (遠距離) 1対多
文化的な距離
- 日本のみ (近距離) <=> (遠距離) 日本と海外
- 社内のみ (近距離) <=> (遠距離) 社内と社外
知識的な距離
- エンジニアとエンジニア (近距離) <=> (遠距離) エンジニアとセールス
- ベテランとベテラン (近距離) <=> (遠距離) ルーキーとベテラン
時間的な距離
- 同期的 (近距離) <=> (遠距離) 非同期的
- 短期的 (近距離) <=> (遠距離) 長期的
これらの掛け合わせから成る、情報発信者と受信者の距離感によって、情報共有に求める詳細度(円滑な個人の活動を維持する条件)が変化すると考えています。
詳細度を高めることは、受信者の違和感をなくすために情報をより作りこむことであり、共有に必要なコストの増加を伴います。
具体例をあげて、イメージを膨らませてみます。
1on1ミーティングは発信者と受信者が1対1であり、互いの時間が同期する。表情や身振りによる付加情報、個人向けに選択された言葉、質疑応答、これらを通してお互いの理解度を容易に補完できる。結果として、一次情報としての求める詳細度は低くなる。
共有ドキュメント投稿は発信者と受信者が1対多であり、互いの時間が非同期になる。概ねドキュメントからの情報が全てであり、一般化した言葉、非連続的な質疑応答、お互いの理解度の補完が容易ではない。結果として、一次情報としての求める詳細度が高くなる。
では補完が容易な、1on1ミーティングのような手法だけで全ての情報共有をできるか?というと、運用コストが高くなりすぎて現実的とは思えない。
つまりは受信者との距離感を手掛かりに、どの程度の情報詳細度が求められるかをイメージし、作成コストと理解度が合致するバランスはどこか?という判断をしていくことだと捉えました。
情報を共有するということは、どれだけの人に、どれだけのコストをかけて、どれだけの共通理解をつくるのかということであると、自分では解釈をできました。
組織における情報共有
行為そのものへの理解が深まったので、次に特定の組織に範囲を狭めて、会社における情報共有の理解を深めて行こうと思います。
会社で行われる情報共有とはどんなものでしょうか?
- 業務資料(企画書、手順書、計画書、報告書、議事録…)
- 作業進捗
- 会社運営に基づく想い(会社として、メンバーとして…)
- 知見やノウハウ(売上を作る、コストを下げる、新技術、効率化…)
ざっとこのようなものが思いつきました。
大きくわけて実務に短期的に影響するものと、中長期的に影響するものの2つがみてとれます。
業務資料や作業進捗は、短期的に共有する必要性が感じられ、払うコストに肯定感があり、意識しなくても共有がされていく情報。
想いやノウハウは、短期的には共有する必要性が感じにくく、払うコストに抵抗感があり、意識して行わないと共有されにくい情報。
それぞれの分類に対して、この様なイメージを持っています。
例外としてインシデントのような直近の実務に影響がでた場合には、しばしば積極的に想いやノウハウが共有される状況になることがあります。これは短期的な情報の必要性とコスト感のバランスが変わり、一定のコストを払ってでも想いやノウハウを共有することに、認識しやすい価値が生まれた結果と捉えています。
ここまでで会社内で実際に生まれやすい情報共有と言う意味では、短期的な必要性が払う共有コストを上回るかどうか?という視点が加わりました。
では例外が発生しない限り、短期的な必要性を伴いにくい想いやノウハウは、本当に共有コストを払うだけの価値がないのでしょうか?
これはひとえに、組織としてどうありたいかが関わってくる部分だと考えています。
次は組織規模と絡めて、想いやノウハウ共有が担う役割を整理したいと思います。
情報共有と組織規模
想いやノウハウは、共有コストを払うだけの価値がないのか?の問いについて、先に自分はどう思うかを書くと、払う価値があると考えています。
組織としてのアウトプットが、ここに書かれているような処理能力の一番低いラインに影響を受けることを前提とすると、ボトルネックを解消する行為は組織としてのアウトプットに寄与する。
想いやノウハウの共有にコストを払う価値は、そこにあると感じています。
会社における想いやノウハウといったものは、短期的な実務の推進力UPのためではなく、中長期的な育成や効率化に繋げていくために共有をしたいのです。
ただここで考えなくていけないのは、この共有コストは常に一定ではないということ。
会社が大きくなっていくということは、新たな拠点がうまれ、多様な働き方を許容し、個人が関わる人数が増えていくことになります。
これは情報共有の距離が広くなっていくことと、同義だと感じています。
円滑な個人の活動を維持するための情報が多岐に渡っていくのと同時に、距離が広くなったことで共有コストも高まっていく。
見渡せるくらいの人数であれば、情報共有フローを整備しなくても、ある程度ノウハウが行き渡るのかもしれません。ある程度想いを吸い上げられるのかもしれません。
しかし組織規模が拡大していく過程で、同じような共通理解を維持したいと願う時には、共有コストとの戦いが常につきまとうことになるのです。
情報共有とどう付き合うか
さて、最後にどう付き合っていこうか?という部分まできたので、まとめていきたいと思います。
理想を言えば、組織内全員の共通理解となれるような情報共有が行われて欲しいです。
しかし組織が拡大していくにつれ、詳細度の高い情報の共有コストは個人で担いきれないものへとなると考えます。
そこで、情報共有の捉え方を変える必要があると感じました。
情報の種をまき、フィードバックを与え、組織として育てていくもの。
組織として必要な共通理解を、組織としてコストを払い、情報共有の詳細度を保っていく。そんな風なイメージが今回できました。
このイメージに簡単な指針をつけて、おしまいにしたいと思います。
- 情報共有のコストを払って情報の種を巻いてくれる仲間を賞賛したい
- 情報はメンバーの参照とフィードバックを与えて組織で育てるもの
- 無駄にも見えがちな想いやTIPSも、距離感によって価値になることもある
- フロー型の情報は新陳代謝と効率化を、ストック型の情報は分類と詳細度を意識する
情報、育てていきましょう。
おしまい。